「アニメーション映画」とはどうあるべきか?

 先週の金曜日、「となりのトトロ」が久しぶりにテレビで放映されていた。その翌日に公開を予定していた、「ゲド戦記」の前フリ、日テレの常套手段だったわけだが、この映画は何度見てもほのぼのさせられる。
 とは言うものの、88年当時のレベル、決して突出した技法があったとかはない。むしろ「フツー」のアニメーション映画だ。何しろまだジブリの評価はきっちりとは定まっていなかったからでもある。
 しかしヒットしなかった(並みの興収しかあげられていない)この作品が、今や日本のアニメ映画史上に残る名作に数えられているのは、すべてにおいて計算しつくされた部分があるからである。
 たとえば、見落としがちな部分でも肌理(きめ)細やかだ。メイが病気の母親のところにとうもろこしを届けようとするシーンで、本人の表情ではなく、足元のアップが入る。なぜ、ここでアップが足元なのか?つまり、すでに伏線が仕込まれていたわけだ。迷子になり行方不明になるメイを捜索しているさなかに、池でサンダルが片方見つかる。ここもアップにして、「似ているけど違う」と言うことを提示して、観客を安心させる。よく知らないばあちゃんは間違ってしまう。けれども観客である我々は、池には沈んでいないことが、すでに知られるのである。そして、次のシーンにもすんなり入ることができるのである。
 そして、これが重要なのだが、「笑い」のシーンが随所にちりばめられていたことがこの作品の評価を高いものにしているといっていい。特に重苦しい雰囲気だった、メイの行方不明にトトロが一役買い、猫バスを呼びつけるシーン。行き先表示板が「めい」に変わった瞬間の館内のどよめきは今でも忘れられない。

 かようなまでにすべてにおいて抜かりの無い作品だった「となりのトトロ」。しかし、以後大ヒットするにつれて、印象が散漫になったり、凡庸なときが流れてしまう作品が増えてしまった。そして、宮崎駿氏のご子息である吾郎氏の「ゲド戦記」が公開中である。各方面の評価は「散々」である。とにかく重苦しい、いい部分が見られない、などなど。「ホラー」とまで評する人すらいる。峠を越えた父親に対抗する意思表示は結構だが、ここまでぼろかすに書かれるような映像を提示してしまっては、ジブリの根幹にかかわる事態である。
 かつて父である宮崎駿氏は、「心の底から笑える映画を作りたい」と何度も言っていた。しかし、現実は、そんな映画はトトロ以降出てきていない。他人原作に流れず、自分たちの世界で観客を納得できるものを送り出してほしいと思うのは私だけだろうか?

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